こんにちは、新潟トラベルのハルです。
- 3月を目の前にしても、毎日寒い日が続きますね。
- 二言目には寒い!しか出てこない今日この頃ですが、今回は今の時期お世話になりっぱなしのニット製品のメッカ、五泉市(ごせんし)についてご紹介します。
新潟の郷土料理:のっぺ
- 五泉市をご紹介する前に、もう一つ。
- 新潟の郷土料理というと、有名どころに「のっぺ(のっぺい汁)」というものがあります。
●のっぺの材料は?
材料は、魚介出汁(貝柱、煮干し、鮭、イクラ…)、野菜(里芋、ニンジン、タケノコ、ギンナン、ゴボウ、さやえんどう、大根、レンコン…)、練り物(かまぼこ、ちくわ…)、油揚げ、キノコ(干しシイタケ、ナメコ…)、こんにゃく、鶏肉などなど。
各家庭により入れるもの入れないもの(上記の全部を入れたのっぺは流石にお目に掛かったことは無いですが)に違いがあり、また切り方や季節の素材の有無、冬は温かく夏は冷たくして食べる、お正月などのハレの日用は食材の品目が増える…等々によっても無数のバリエーションが有り得るにも関わらず、新潟の “おふくろの味”と言えばこれ!と思い浮かべる方が多い面白料理です。
知り合いの家にお呼ばれしたら、自宅の味と比べてみて楽しむ、なんていうのも良くある話なんですよ。
●のっぺの味付けは?
- 味付けは醤油ベースに多彩な食材の出汁が合わさったもの。
- 味噌は使わないので、世間一般としては煮物のカテゴリーに含めて考える方もいらっしゃるそうですが、どちらかというと具材が煮物より小さく切り揃えられていて、かつ比較的つゆだくなので、汁物カテゴリーにも含まれるのではないかな?とハルは考えています。
- ちなみに佐渡ではのっぺは作らず、「煮しめ(お煮しめさん)」を作ります。
- こちらは、聞きかじりなのですが、煮汁が少なくなるまでコトコト煮込んだ料理で、具材も「おでん風」と表現されるように1つ1つがのっぺよりも大きいです。
- こちらも家々ごとにご家庭の味・食材があり、概ねあごだし(トビウオ)などと醤油で中までしっかり味をしみ込ませているので、食べるとじゅんわりと旨味が口の中に広がります。
- カーフェリーで2時間半の距離にも関わらず、海一つちょいと隔てただけでこんなにも食文化が違う、というのが新潟県の面白い所でもあります。
- さて、そんな結構マイルドな線引きの郷土料理・のっぺですが、コレは誰に聞いてもほぼ入っている、と言って間違いない食材があります。
- それが、里芋。
- 恐らく新潟の方にのっぺの具材を聞いた際、他の何が欠けても「里芋抜き」というパターンは十中八九無いのではないでしょうか。
- 他県で「のっぺ(のっぺい汁)」を作る際、とろみ付けに片栗粉などを用いる場合があるそうですが、その手法はあまり新潟では見かけないような気がします。
- 代替として、里芋から出る自然のぬめりによってとろみと風味を出している場合が多く、つまりこれが新潟ののっぺの要と言っても過言ではないそうです。
- そしてこれが汁物と煮物の線引きを曖昧にしているような…。
- だって、作った初日の煮汁はサラサラしているのですが(汁物っぽい)、翌日また火を入れると里芋のとろみが出て俄然トロトロしてくるんですよ(煮物っぽい)。
- まぁそれがまた旨味を含んで美味しいんですけど(*´з`)
- 里芋ありきで料理をするため、収穫シーズンの秋から冬にかけて、更にはお正月などに家庭で食べられるほっこり温かい料理、というイメージが強いのかも知れません。
- まぁ細かい所はともかく、美味しいもんは美味しいんです、はい。
- おっと、のっぺ愛で前置きが長くなりましたが、今回はそんな寒い時期のお供・のっぺに欠かせない里芋のブランド産地でもある、五泉市をご紹介します。
五泉市について
五泉市は、新潟市から南南東の方向へおよそ25km、以前ご紹介した阿賀野市とは、平野部分が阿賀野川のちょうど対岸に位置します。
平成18(2006)年1月に、北側の旧五泉市と隣接する南側の村松町(むらまつまち)とが合併して、現在の351.87㎢という新潟市のほぼ半分もの広~い面積を持つ現在の五泉市となりました。
●市名の由来は?
- 五泉市の由来には諸説あり、文字通りの「5つの泉が湧き出ていたから」説や「5つの川が流れていたから」説、人名説等々あるそうですが、決定的な説はないようです。
- とは言え、阿賀野川はもちろん、早出川(はやでがわ)や能代川(のうだいがわ)が流れる五泉市は水が豊富で、越後平野の一角として一大農業地帯を形成しています。
五泉市の北を阿賀野川が流れており(一部にお向かいの阿賀野市の飛び地がありますが)、この川沿いの市域東端には、五泉市随一の温泉地である咲花温泉(さきはなおんせん)があります。
- またこちらを起点に、五泉市をズバッと北北東から南南西にかけて、北から鳴沢峰・菅名岳(すがなだけ)・大蔵山、更に早出川を挟んで白山と、越後山脈の山々連なっていて、五泉市は北西側半分の平野と南東側半分の山地とにおおむね二分できます。
- この北西側の平野のもう一方、西端側には油田がズラリと並ぶ新津丘陵が控えているので、五泉市の平地部分はおおむね“時計回りに少し傾いた逆二等辺三角形”といった形です。
また、阿賀野市の回でもご紹介しました阿賀野川頭首工(あがのがわとうしゅこう)の恩賜は、この阿賀野川左岸地域の五泉市も潤しています。
- ちなみに、この逆二等辺三角形の北東の角部分、阿賀野川と越後山脈の裾の交差地点に「馬下(まおろし)」という地名があります。
- JR磐越西線の駅で、咲花温泉のある咲花駅や阿賀野川頭首工の少し手前となる位置に馬下駅があるのですが、この地名には『この先は馬を下りないと進めないくらいの難所ですよ』という意味が込められているのだとか。
阿賀野川を此処からさらに遡ると、新発田市方面へ流れる加治川(かじかわ)との分水地点を経て阿賀町、そして喜多方市や会津若松市といった会津藩のお膝元へと辿り着きますので、この川はまさに交通の要衝でした。
また此処こそ、阿賀野川の右岸側にある阿賀野市の旧安田町を悩ませていた南東~東南東からのダシの風(この地域では「安田ダシ」と呼ばれました)の大きな噴き出し口なのですが、硬い花崗岩質の越後山脈から狭い流路を抜けてきた風と水の影響は、当然五泉市側にもさまざまに影響を及ぼしていたのでした。
五泉市と「ダシ風」
- さて、阿賀野市の旧安田町では、ダシの風の影響で農業に向いていなかったため、酪農を始めた…というお話をしました。
- 一方左岸側の五泉市の方も、やはりこの越後山脈を越えてやってくるフェーン現象の「ダシ風(阿賀嵐とも呼ばれました)」に悩まされ、稲作に向いていない地域というものがありました。
●「ダシ風」の影響で植えたもの①:里芋
- その時、この土地の人々が植えたのが、最初に「のっぺ」のところでご紹介しました里芋だったのです。
- 根菜なので風の影響を受けにくく、また川の氾濫で水はけの良い土壌が得られたことで、五泉市は県内随一の里芋産地となったのでした。
- 特にブランド野菜として有名なのが、「帛乙女(きぬおとめ)」という里芋の品種。
- 芋の断面が色白できめこまやか、そして煮崩れしにくくぬめりも強め!という、まさにのっぺを作るためにデザインされたと言っても過言ではないくらいの美味しい里芋なんです。
- ちなみにこの帛乙女は五泉市の3大ブランド野菜の1つで、他にはレンコンの「五泉美人(ごせんびじん)」、長ネギの「やわ肌ねぎ」がありますので、ぜひお越しの際は召し上がってみて下さいね。
●「ダシ風」の影響で植えたもの②:桑(くわ)
- そしてもう1つ、このダシ風の影響で稲作に向いていなかったことが一因として栽培されていたのが、桑(くわ)。
- そう、勘の良い方ならもうお分かりかと思いますが、養蚕(ようさん)、絹の生産です。
- 先程ご紹介した帛乙女の「帛」も、それにあやかった名前なのだそうですよ。
- …あれ、冒頭でニットがどうとか言っていなかった?という感想をお持ちの方、少々お待ちください。
- 養蚕からニット生産に至るまでの五泉市の道のりには、それはもう二転三転紆余曲折が有ったのです。
●絹織物がニットに至るまで
- そもそも五泉市で養蚕、さらに其処から糸を作り織物まで作る、というところまでの生産が始まったのは、江戸時代中期頃とされています。
- 当時この地域で生産されていた絹織物は「五泉平(ごせんひら)」と呼ばれ、高級な袴(はかま)の素材として大川湊から阿賀野川を経て江戸や京都の方へ輸出されていました。
- その特色は染めの技術にあったといわれ、『天然染料を用いて化学染料に見られない美しさに染めあげる』という染色技法は、新潟県指定無形文化財(工芸技術)に指定されていたほどだったのです。
- ※平成25(2013)年10月に技術保持者ご逝去により、現在 無形文化財指定は解除されています。
が、明治時代になると次第に洋服が主流となって袴の需要がガクッと激減してしまい、最盛期には20軒余りあった機屋(はたや)が、明治20(1887)年頃にはたったの3軒!という状態にまで落ち込んでしまったのでした。
それ以降、染めていない状態の羽二重(はぶたえ)を海外へ輸出して食いつなぐも、日清戦争(1894~1895年)の影響でますます不況に陥ります。
それならばと、今度は国内向けに、洋服向け規格のサイズの小さい幅で羽二重を生産するよう工夫したりして、五泉市の織物産業はどうにかこうにか凌いできたのでした。
- が、ここで冒頭の「ダシ風」が五泉の街に猛威を振るいます。
- 大正2(1913)年10月に起きた大火によって、多くの手織機(てばた)が焼失してしまったのでした…。
- しかし!ここで終わる五泉の織物産業ではございません!
- 打たれ強い五泉ガッツ(?)で、これはチャンスとばかりに機械化を進め、動力織機(当初は電気ではなく蒸気機関などで動かしていました)や糸を撚(よ)る機械などを導入したことで、この地域の織物産業を一気に近代化させたのでした。
…が、時代がまた織物産業に試練をもたらします。
昭和に入り、日中戦争(1937~1945年)の開始に伴って、今まで絹織物を取り扱っていた京都などの問屋が軒並み臨時休業となったのに始まり、昭和15(1940)年に国の奢侈品(ぜいたくな品物)の取り締まりが強化されると、すでに踏んだり蹴ったりだった絹織物業界は大ダメージを受け、本格的な整理調整をせざるを得ない状況に追い込まれたのでした。
そして其処へ追い打ちをかけるように、また大火!
昭和3(1928)年8月の中町大火、そして昭和20(1945)年4月の五泉大火によって家々はもちろん、織機も大量に焼失してしまう事態となりました。織機の台数だけを取ってみても、実に全盛期の1/6以下にまで減少してしまったのです。
- いずれも折悪しく、南東~南西からの山を越えてくる台風並みのダシ風が吹きつけ、あっという間に火の手が燃え広がったそうです。
- 特に五泉大火の時分は第二次世界大戦も佳境の時期で、消火や復旧に使える資材の一切合財が不足していたため、市の担当者の方も罹災者の方も双方とても苦労されたでしょうね…。
ああ、いったい何度ピンチが訪れるんでしょう…説明しながらハルも切なくなってきました(+_+)
- しかし決して挫けない五泉の織物産業、次なる一手は…ニット(メリヤス)への転業でした!
- これもまた五泉市の織物産業にとっては大きなターニングポイントで、簡単に言うと、今までは経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を単に交互に織っていく「織り物」だったものが、今度は一転して糸を輪の形にして網目状に編んでいくという「編み物」に変わったのです。
かくして戦後以降、一部の織物業者が導入し始めた横編メリヤス機械に端を発したこの大転換は、やがて現在の五泉市を全国でも有数のニット産地にまで発展させたのでした。
- ここまで一部割愛してテンポ重視でご案内しましたが、こうまで何度も工場や街が大ダメージを受ければ、機械や道具はもちろんですが、職人さんという技術の散逸も招く恐れがあります。
- しかしそれでもこの地域では、その人間という“資産”をも大切にしてきたからこそ、今現在もこうして工場が立地する一大産地となっているのでしょうね。
旧村松町について
さて現在の五泉市は、北側の旧五泉市と南側の旧村松町とが合併して誕生したのですが、旧五泉市は今までご覧いただいたように、(中世以降に一時期城は在りましたが)自然発生的にできた町を起源としている一方、旧村松町は城下町として発展してきました。
- 中世の頃は上杉家の勢力下にあったのですが、上杉家のお家騒動である御館の乱(おたてのらん)とその後の上杉景勝の会津若松への移封で、この地は村上藩の所領となりました。
- それから村上藩の藩主が堀氏の時代に、その親族内で領地の分与や領地替えが行われ、寛永21(正保元年、1644)年に村松藩3万石としてスタートしました。
- とはいえ、村松藩は現在の加茂市や三条市の方までの土地を治めていたものの、ご覧のとおり山間地が多く、新しい田畑の開拓も難しいという、なかなかお財布事情に余裕のない藩だったそうです。
- たびたび財政改革を行うもののなかなか税収は伸びず、18世紀の中頃にはもうアップアップの火の車でした。
●堀玄蕃による藩政改革
- そして文化2(1805)年、当時 堀玄蕃(ほり げんば)という家老が今までになく厳しい改革を推し進めます。
- 内容を簡単に言えば、耕作地の広さや育てている作物のチェックと、田んぼの新規開拓を中心とした割と正攻法な施策なのですが、そのやり方が相当スゴかったそうです…。
チェック対象の土地は、荒れ地や畑からの転作地、新しく開墾した田んぼなどでしたが、この「荒れ地」には『山沿い・河原・草生場・水溜まり・秣場(まぐさば、牧草地)』や村共同の採取・用水地なども含まれており、これを本当にやったら誰一人まともに住めないんじゃないか?という範囲まで年貢の徴収対象地にしようとしていたのだとか。
そして調査もそこまでやるか!という綿密さで行われたため、日数がかかり過ぎて諸経費が増大しまくったり、それに不服を申し出た地元の庄屋さんをお役御免にしたり、果ては『不埒のものはその場で打ち首にするほど』などなどの逸話が残っているそうです。
うーん、いかに藩のためとはいえ、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしだと思うのですが…。
●村松全藩一揆
- で、結果は…まぁ当然ですが、一瞬だけ税収アップすることは出来たものの、一揆が起こりました。
- それも村松全藩一揆と名の付く大騒動が勃発したのです。
- 折悪く凶作の年も重なり(にも関わらず、年貢の掛け額見直しもせず耳を揃えて払え!というムチャっぷりだったため)、腹に据えかねた農民により、とうとう文化11(1814)年に牛野尾谷(うしのおだに)から発生した一揆は、瞬く間に領地一帯に広がったのでした。
- そして藩の番所や施策実施に深く関わった大庄屋・村役人宅など実に約70軒を打ち壊し、お目付役の居丈高な態度にも屈せず、ついにはこの施策の廃止に成功したのでした。
一揆の首謀者は打ち首となってしまいましたが、家老の堀玄蕃も退陣し、かくして農民の団結力を嫌というほど思い知った村松藩は、以後こういった強硬策を打ち出すことはありませんでしたとさ。
●村松藩のその後
- 昔話であれば、此処で「めでたしめでたし…」と締めくくりたいところなのですが。
- その後、結局相変わらずお財布の寂しい村松藩がどうしていたかというと、ともかくさまざまな産業に着手してどうにか糊口をしのいでいたようです。
- その一つがお茶の栽培。
- もともと村上藩が、京都の宇治から取り寄せたお茶の木を江戸の邸宅で栽培していたところから、地元の村上で、さらに村松藩が成立するとこの村松の地でも栽培されるようになりました。
- 当時お茶を生産できる地域の藩は、それを重要な交易品として保護していたため、藩の外へのお茶の実や苗の持ち出しを厳しく取り締まっていたのですが、18世紀初頭に財政がキュウキュウだった村松藩は、年貢増収を狙って美濃から新しい種や製茶法の導入を行ったのでした。
- ちなみに余談ですが、新潟県のニット生産ではワンツーでランクインする新潟県中央の見附市(みつけし)も、ニットなどの繊維産業が盛んになった始まりと辿ると、同じく領主だった村松藩が見附結城(みつけゆうき)という綿織物の生産を奨励したことに端を発するのだとか。
- つまり村松藩にはかつて、こういった織物産業にも目を付け、なんとか藩の財政を回そうと必死に頑張っていたお殿様やご家老衆がいらっしゃった、ということなのでしょうね。
- さて、その後の村松でのお茶の栽培ですが、安政6(1859)年の開港以降にお茶の主要産地が海外輸出を始めると、国内でのお茶の商品価値がアップしたため、これはチャンス!と旧村松藩領内で量産され、20世紀初め頃には製茶量がおよそ84tもあったそうです。
- 平成31(2019)年時点の新潟県全体のお茶生産量は9t程度ですので、当時はずいぶんとたくさん生産されていたことが分かりますね。
- が、現在では残念ながら、村松のお茶は幻となってしまいました。
- 明治30(1897)年に、お茶生産の中心地であった愛宕原へ旧日本陸軍の第30連隊の歩兵営・練兵場が設置されたり(その後大正時代末に上越市高田へ移動し、第13師団が駐屯する軍都となりました)、養蚕のため茶畑が桑畑に植え替えられたり、茶業組合が解散したり…等々の理由で尻すぼみとなり、今ではもうお茶畑を見ることは出来なくなってしまいました。
- 残念…(+_+)
五泉市の観光スポット
●村松公園
- 兵どもが夢の跡、ここまで長々語ってきました歴史をずっと見守ってきたのがこちら、村松公園です。
- 明治39(1906)年に日露戦争の戦役記念で公園として整備されました。
- ※村松城址は、五泉市村松乙の郷土資料館近くにあります。
標高100mほどの愛宕山の北側を中心に、各所に忠魂碑や忠霊塔、神社などが祀られており、かつての茶畑、そして練兵場のあった愛宕原が、さらにその北側に広がっています。
- そして何といっても村松公園は、春になると約3,000本の桜が咲くことで有名で、日本さくら名所100選にも選ばれています。
- こちらの桜はおよそ9割がソメイヨシノで、開花時期は例年4月上旬~下旬。
- また、秋には紅葉シーズンもモミジや桜の真っ赤な絨毯が楽しめるとあって、街の人々の憩いのスポットとなっています。
今年は新年早々の大雪で、かなり桜の木々もダメージを受けてしまったそうなのですが、例年通りの可憐な花々を見られると良いですね。
ちなみにこちらには、新潟駅構内にも設置されている忠犬タマ公像が立っています。
- 忠犬タマ公とは、昭和の初め頃、旧川内村(旧村松町)の、山で猟をしていて雪崩に巻き込まれたご主人を、2度も雪の中から助けて“忠犬”と呼ばれた越後柴犬の女の子です。
- 通常の柴犬と違い、しっぽがクルンと丸まっていないのが越後柴犬の特徴なのだとか。
- その忠犬ぶりが当時国内外の新聞やラジオで有名になり、県知事などから表彰されたこともあります。
●咲花温泉
冒頭の『五泉市について』の項でも触れましたが、五泉市の北端、阿賀野川に面した県境を東へ遡上していくと、五泉市随一の温泉・咲花温泉(さきはなおんせん)があります。
- 内陸の温泉地と言うと、大抵山間をイメージされる方が多いと思いますが、こちらの温泉は何といっても阿賀野川に面している、というのが特徴です。
- というより、昔からこの近辺の川岸から温泉が湧出しており、地元の方々はそのお湯を汲んで共同浴場にしていたのだとか。
- 昭和29(1954)年に温泉井戸を掘削したことで、今日に至る温泉街の姿になったそうです。
- もっとも、その当時は鉄道も通っていなければ、冒頭の難所ポイント・馬下の上流である咲花温泉までは道路もきちんと整備されていませんでしたので、当初は馬下から咲花温泉までの短距離を定期船で行き来していたそうです。
現在は、この阿賀野川の舟運の様子を「阿賀野川ライン舟下り」で垣間見ることが出来るほか、JR咲花駅には「SLばんえつ物語号」が停車します。
●四季の花々
- そして肥沃な土壌と豊富な水に恵まれた五泉は、花の名所が多いことでも有名です。
- 先程の村松公園の桜はもちろん、春のチューリップやミズバショウ、5月からは牡丹(ぼたん)や芍薬(しゃくやく)の大輪の花が咲き、秋にかけてはイチョウやモミジの紅葉が目を楽しませてくれます。
- 季節ごとに桜まつり・チューリップまつり・花木まつり等々のイベントも行われていますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
※新型コロナウィルス感染症対策により、イベントが変更・中止となる場合があります。またお越しの際は、マスクの着用や三密を避けるなど感染症対策を心がけて頂きますようお願い致します。
他にも、五泉の由来たる豊富な湧水を汲むことのできる「どっぱら清水(しみず)」や城下町の面影を残す村松の街並み散策、昔懐かし昭和レトロな地元スイーツやパン、ラーメンなどのうまいもの巡りなど、五泉市にはまだまだご紹介したいところが本当はた~くさんあるのですが、今回は一旦ここまで。
五泉市の春まではもう少し掛かりそうですが、ぽかぽか暖かい日のお出掛けシーズンへ向けて、ご旅行の計画を練ってみるのはいかがでしょうか。
- 今回も最後までお読み頂きありがとうございます。
- では、次の「にいがた再発見!」でお会いしましょう!
- ≪参考≫
- ・鈴木郁夫・赤羽孝之(2010)『新旧 地形図で見る新潟県の百年』新潟日報事業社
- 田村裕・伊藤充(2010)『知っておきたい新潟県の歴史』新潟日報事業社
- 新潟地域振興局 新津地域整備部 発行パンフレット『かわとまちがつながる歴史とつながる阿賀野川咲花温泉』(2020年)
- ・ぐるたび『佐渡煮しめ』https://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_6105/ (閲覧:2020年12月)
- ・五泉市役所『新「五泉市」誕生』https://www.city.gosen.lg.jp/material/files/group/5/51926998.pdf (閲覧:2020年12月)
- 『旧五泉市の紹介』https://www.city.gosen.lg.jp/material/files/group/5/99884423.pdf (閲覧:2020年12月)
- 『旧村松町の紹介』https://www.city.gosen.lg.jp/material/files/group/5/57537749.pdf (閲覧:2020年12月)
- 『その他資料』https://www.city.gosen.lg.jp/material/files/group/18/R2siryou-5.pdf (閲覧:2021年2月)
- ・新潟食品名産図鑑『五泉市特産さといも』https://nigata.japanfoods.net/specialty/kinuotome/ (閲覧:2021年1月)
- ・HYANDE iimachiごせん『「五泉平」の染色技術』https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/1/2104.html (閲覧:2020年12月)
- ・全国茶生産団体連合会・全国茶主産府県農協連連絡協議会『茶ガイド』https://www.zennoh.or.jp/bu/nousan/tea/index.htm (閲覧:2021年2月)